190センチを超える大男であり、数々の軍功によって"猛将"として知られる。全身に多くの戦傷があり、右手の薬指と小指、左手の中指、左足の親指が欠損していたという。その一方で、特に"城づくりの名人"として評判が高く、茶の湯や能楽も好んだ文化人であり、学問にも精通していた。徳川家康から絶大な信頼を得て、秀忠、家光と3代の将軍に仕えた。弘治2(1556)年~寛永7(1630)年。
藤堂高虎は、15歳で近江・浅井長政に足軽として仕えたが、長政が織田信長に滅ぼされて以降、なんと8回も主人を変えている。そのため、「風見鶏」「世渡り上手」などと陰口も叩かれたようだ。しかし、実際の高虎は全く違う。忠義の人であり、最後に仕えた徳川家からの信頼は非常に厚く、家康に「国に大事あらば、藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめた。平和を愛し、身に付けた建築術で徳川家のみならず、地域社会の発展にも大きく貢献した。
今回は、浪人中に無銭飲食をしたこともあったという苦労人が、32万石の大名に出世した生き方を追いながら、現代ビジネスマンへのヒントを探ってみたい。
関連会社に配属 あきらめずに実力を蓄える
若き日の高虎は"転職"を繰り返したため、トップに立つ人物に仕えることができなかった。たとえば、織田信長の時代には甥の信澄に、豊臣秀吉の時代になると弟・秀長やその子・秀保に仕えている。現代企業に置き換えれば「関連会社もしくは支社・支店配属」といったところだろう。戦国時代はこのような立場だと出世をあきらめざるを得なかったが、高虎はそこで、「今は力を付けるときだ」と考え、配属先の組織で多くのことを学んでいった。
現代でも、支社・支店への転勤や関連会社への出向を命じられれば気を落とす人がいる。しかし、どのような状況に置かれても、そこで真摯に仕事に取組み、成果を上げ、自分を磨くことは大切だ。そういった努力によって周囲の評価が高まれば、風向きが変わることはいくらでもある。くさっているより行動が先だ。まさしくこの時期の高虎は、いつ訪れるか分からないチャンスのために、日々の努力を怠らなかった。
そしてチャンスはやってきた。京都に建てる家康の屋敷を高虎が担当することになったのだ。高虎は前年、2つの築城を担当しており、自身には建設の才能があることに気付き始めていた。当時の家康は多くの者から命を狙われており、この屋敷は政治的にも極めて重要だったので「最高の仕事をしなければならない」と決意した。
高虎は渡された屋敷の設計図を分析したところ、警備面で大きな欠点があることに気付く。もしや、この設計図をつくった人物は家康を狙っているのではないか...。そこで高虎は、独断で設計を変更、強固な警備が可能な屋敷を建てた。しかも余分にかかった建設費用はすべて自分持ちだったという。
この仕事が高虎の人生を大きく変えた。家康は、自分を取り巻く情勢(アンチ家康派の勃興)を読んだ高虎の洞察力、勝手な設計変更によってクレームが出る可能性もあるにも関わらず、危険を察知し実行に移した危機察知能力と決断力を高く評価して「自分の部下として働いてほしい」と考えた。そして十数年後、関ケ原の合戦が勃発すると、高虎は家康軍に参加し最前線で活躍。家康からの大きな信頼を得ることになる。転職を繰り返してきた高虎が、ようやく「信頼すべきトップ」にたどり着いたのだ。
現状の立場を嘆くことなく、努力を続ける
ヒューマン目線の新発想と技術革新
高虎が望んでいたのは「平和な社会の実現」だった。それをやり遂げる力を持った家康の部下となり"設計士・高虎"としての思想は大きく進化した。
戦国期の城づくりは戦闘力・防御力が求められた。たとえば"城づくりの名人"と評された加藤清正の居城・熊本城は、敵の侵入を防ぐため、石垣は緩やかな勾配が途中から急になる"反った"形状。本丸への経路は複雑で距離も長かった。また、籠城戦に備えて各所に井戸が掘られ、食料となる銀杏の木を多く植え、さらには、畳や壁にも食料となるものが練り込まれたという逸話もある。しかし、徳川の世になり平和が訪れると、そうした"戦用の構え"は陳腐化する。事実、加藤家に代わって熊本城に入った細川家は、あまりの使い勝手の悪さに大リフォームをしなければならなかったという。
一方、同じく"名人"と評された高虎の設計は全く異なり、「深く広い堀と高い石垣で敵を侵入させない」というシンプルなものだった。城内も人が移動しやすいように広い自由空間を設けるなどの工夫をした。これは、城に防衛力を持たせることは当然のこととして平時の使い勝手の良さにも配慮した、戦国時代としては極めて斬新な発想だった。やがて、平和な時代が訪れると城は政庁としての性格が濃くなるが、登城しやすく移動しやすい高虎の城は、武士の仕事を大きく助けることになった。まさしくこれは"先を読む力とヒューマンな目線"が、ともすれば無用の長物になりかねないレガシーに、新たな価値を生んだ好例といえるだろう。現代の企業は、まさにこうした力を欲している。
また、高虎は職人気質に富んでおり、技術革新をおこなっている。たとえば今治城で導入された「層塔型(そうとうがた)天守」だ。従来の天守は、建築に手間・時間がかかり強度にも難があったが、それに対して層塔型は、現代のプレハブ建築のように規格化された材料を組み合わせることで建設する。これにより、強度を高めながらも、工事期間の短縮やコストの大幅削減に成功したのだ。
長い歴史や伝統があるモノ・サービスであっても、発想を変えるだけで商品力を高め、業務効率を上げることができる。現代のビジネスにおいても、商品力を高めたいのならば製品やサービスを、また、業務効率を上げたいのであれば人事や業務体制、営業ツールなどを徹底的に見直して、そこに新たな発想を加えることが"強い企業体質"をつくるカギになる。
既存の商品・サービスも徹底的に見直す
機能性や利便性を重視 人々の士気を高める工夫
高虎の先進性は、城づくりに限られたものではなかった。経済発展を念頭に置き、行政がおこないやすいよう城と町を総合的に設計したのだ。それまでの城は、山頂に築く「山城」や斜面を利用する「平山城」(熊本城など)が主流だったが、今治城は平地に築かれた「平城」だ。したがって、政庁としての機能性が発揮しやすく、城下町を整備するには圧倒的に有利になる。その名残で、今治城の周囲は平行する何本もの道路が整備されており、人の移動や物流に大きく貢献している。
もう1点、見逃せない思想がある。それまで、城というと「烏(からす)城」と呼ばれる黒壁が主流であったが、これを白壁にしたのだ。「白は明るく、平和な色だ。城が平和の象徴になる」と高虎は考えた。町の中心となる城を平和な明るい色にしたことで、そこで過ごす町民たちも、元気に町づくりに参加したという。
このように、高虎の城づくり、町づくりは、「機能性・利便性を重視」「時短・コストの削減」「気持ちのいい」といった特徴を有しているわけだが、こうした発想は、現代のオフィスに応用できるだろう。どんなレイアウトにするか、家具はどんなものを入れるか、ネットワーク構成はどうするかなど、考えなければならないことは多々あるが、「働きやすい動線を保つ」「明るくて気持ちのいい空間づくりの心がけ」などは、社員のモチベーションを高める要素になるのは間違いない。
その後、高虎は伊賀上野城、津城、伏見城、二条城、江戸城、上野の寛永寺、日光東照宮、名古屋城、駿府城、新大阪城などの建築を担当。それ以降に建てられた城のほとんどが、高虎の設計思想を受け継いでおり、いわば"日本の城のスタンダード"となっていった。
社員のモチベーションを高める職場環境
強い組織をつくるリーダーの心得
講談・浪曲に『出世の白餅』という作品がある。ここでは、若き日の高虎のエピソードが語られている。主君に愛想をつかして出奔し、浪人生活を送っていた高虎が、あまりにも腹がすいたので餅屋で無銭飲食をしてしまう。それを店主に正直に白状して謝罪すると、逆に店主に「故郷に帰って親孝行しなさい」と諭されて金銭まで与えられる。後年、大名となった高虎が餅屋に立ち寄り、餅代を返し、その後も立ち寄るようになったという人情話だ。これには高虎の性格がよく表れている。大出世を果たしたあとも、受けた恩を忘れることなく、庶民にも人情厚く接するというのは、土豪の出身で、足軽からスタートした苦労人だからこその心遣いだ。
高虎は大名となっても領民に対してやさしく対応していた。当時の城づくりは、元請けの藤堂家(建設会社)が、地元や現地の領民(下請け業者)を雇って工事をするのが一般的。雇われた者から見ると、高虎は親会社の大社長のようなもので、雲の上の存在といってもいい。そんな立場にありながらも、高虎は自ら先頭に立って建築現場に入り、労働をこなしていた。これには領民たちも、やる気を出さないわけにいかない。藤堂家の現場は、いつも活気にあふれていたという。
また、高虎は遺言で、次のような言葉を残している...
年貢に携わる代官の報告もよく聞くことだ。武士と実務の代官は車の両輪のように思え。
この頃の藤堂家は32万石という大大名だ。そのトップが、決して交わることはないであろう末端社員(領民)の意見を吸い上げようとしていたのだ。こうした姿勢は、現代社会において成功したリーダーたちにも見ることができる。たとえば、松下幸之助氏は、部下の意見を聞き、良案ならすぐに取り入れた。そして、成功したらその人物のおかげだと褒める。褒められた社員やそれを見ていたほかの社員も士気が高まる。ひいては企業が発展する、という考え方だ。
家康、秀忠、家光と3代の将軍から信頼を寄せられた高虎は"リーダーの資質"について次のように述べている...
上に立つ者の第一の役割は部下の能力を見定め、適材適所に配置して十分に働かせることだ。
また、リーダーの心構えについては...
人を疑わないことも大事で、たとえ天下人でも、下の者を心服させられなければ、肝心の時に事を謀れなくなって失敗をするようになってしまう。もしも悪人の言葉を受け入れるようになれば、能力のある善人からの人望を失って、人材が集まらなくなるだろう。
と述べている。
戦国の混乱がまだまだ残っていた江戸時代の初期に、「領民や部下を大切にする」という経営姿勢で臨んでいたからこそ、藤堂家は明治維新まで続く名家となったのだろう。
強い組織は社員の意見を大事にし、
下請けにもやさしい
高虎の配慮に学ぶプレゼンのコツ
資料作成が簡単になった現代は、プレゼンテーションの機会が何かと増えているが、ぜひ参考にしたい"プレゼンのコツ"を教えてくれるエピソードがある。最後にそれを紹介しておこう。
二代将軍・秀忠が江戸城の普請を思い立って、高虎に設計を命じた。すると、高虎は2種類の設計図をつくった。不思議に思った部下が「なぜ2種類つくったのですか?」と問うと、高虎は「1つしか提出しなければ、たとえ上様が決めても、世間的には俺のつくった城となってしまう。しかし、俺の設計図であっても2つ出せば、上様がご自分の意志で決定したことになるだろう」と返答した。
仮に1案だけでも、高虎を深く信頼していた秀忠が文句を言うことは決してない。しかし、高虎は日頃から「名人と呼ばれても、思い上がってはいけない」と自らを諫めていたので、秀忠の立場を熟慮し、プレゼンに最大限の配慮をしたのだ。
プレゼンテーションには自信や熱意、誠実さなどが必要とされる。しかし、それだけではだめだ。内容に自信があるからといって自分(自社)本意の提案をしたとしても、成功する可能性は低い。また、「こちらはプロなんだから、任せてくれればいいんです」といった思い上がりの態度は、相手の気分を害するだけだ。成功のためには、相手の立場に立たなければならない。加えて、プレゼンを受けた側が「自ら決定した」という意志決定のプロセスがあれば、承認された企画内容から大きく外れて進行するようなことはまずない。そういった"成功への道"を、転職を繰り返してきた高虎だからこそ理解していたのだろう。この慎重すぎるほど慎重なプレゼンは、現代のビジネスパーソンにも参考になるはずだ。
プレゼンには、相手の立場を考えた配慮が重要
■記事公開日:2019/10/24
▼構成=編集部 ▼文=小山眞史 ▼イラスト=吉田たつちか ▼写真=フリー素材