戦国時代には、歴史を作るたくましさを備えた女性たちが数多く活躍していた。前回は、「内助の功」によって夫を出世させ、生活を守った3人(前田まつ・竹林院・山内千代)を取り上げたが、今回は、組織(家)の存続や拡大に大きく貢献した女性たちを紹介していきたい。
変化する情勢に素早く対応し、上司の意向に真っ向から立ち向かって家を守った小松殿。男性優位のこの時代に、女性参謀として徳川幕府の政権基盤の構築に大きく貢献した阿茶局(あちゃのつぼね)。そして、息子の命と引き換えにしてまでも、家を守るために合戦の指揮をとった戦国一の女傑・妙印尼(みょういんに)の3人だ。
本家当主の意向を敢然と拒否 家名を上げ、家を守った小松殿
テレビドラマ『半沢直樹』をご覧になった方も多いことだろう。「正義を守る、それが銀行を守ることになる」という一念で上司の指示を真っ向から拒否。不正を暴き、結果として勝利するというストーリーは、多くの視聴者を感動させた。これを戦国時代に置き換えると、「生き残るべき正しい道を選択する、それが家を守ることになる」という意味になるだろう。現在よりも、はるかに上司の意向が強く反映されたこの時代に、本家当主の心根を疑い、そして突っぱねることで正しい道を選択し、結果として家を守った女性リーダー、それが小松殿だ。
1585年の第一次上田合戦において、真田家に敗れた徳川家から、両者の関係を深めるために真田家に嫁いだのが小松殿だ。家康の家臣の中でも最強と評された猛将・本多忠勝の娘で「男勝り」と評されてもいた。小松殿は、家康の養女というかたちで真田に嫁ぐことになるわけだが、その婿選びの逸話がおもしろい。家康が若い武将たちを並ばせて小松殿に結婚相手を選ばせようとしたところ、無礼にも小松殿は一人ひとりの髪を掴んで顔を上げさせるという暴挙に出る。多くの武将が家康を前に緊張して何も言えずにいる中、真田信幸はこれを叱咤、扇で小松殿の顔を打った。小松殿は、その堂々とした態度に感動して信幸を選んだという。政略結婚ではあったが、その後二人の仲はとても良かったという。
結婚後は、戦である。秀吉による小田原攻めで軍功を挙げた真田家は、旧領であった上野(群馬)・沼田城を取り戻し、信幸が城主となった。信州・上田の本家には父・真田昌幸が居る。その後、家康は対立していた会津の上杉家との合戦にのぞむために軍を率いて北上するが、その途中、石田三成らが挙兵したことを聞き、急遽軍を反転させた。ここで真田家に分裂がおこる。
このとき、昌幸と弟・信繁(幸村)は真田家存続のために石田方への加勢を決める。一方、信幸は徳川方につくことになった。そして信幸は、そのまま徳川軍に合流するが、昌幸と信繁は上田へと向かう。その道中、昌幸は「孫の顔を見たい」という名目で信幸が留守中の沼田城に立ち寄った。その真意は、信幸が不在であることをチャンスと見て、そのまま沼田城を乗っ取る計画だった。
変化した情勢を見極め、素早く対応することが重要
そんな魂胆の昌幸の前に現れたのは、なんと武装した小松殿だった。「たとえ父上であっても敵となったからには入城させるわけにはいきません」と毅然とした態度をとる。そして、「もしや、孫の顔を見たいというのは方便で、息子不在のときに城を乗っとろうとお考えなのでは?」と問いかける。
昌幸は、「さすがは本多忠勝の娘、武家の妻はああでなければいかん」と小松殿の毅然とした態度に感服し、近くの寺に宿泊することになった。ところが翌日になると、小松殿はこっそりと寺を訪れ、昌幸と孫の対面を実現させるなど、義父に対しての細やかな配慮もみせている。
当時の武家社会においては、上司の意見は絶対だ。まして自分にとっては義父であり、本家の当主である昌幸の意向には絶対に逆らえない。しかし、小松殿は、門を固く閉ざし、これを拒否した。昌幸が家康に同行していないことから「義父は敵に回った」と推測したのだろう。変化した情勢を瞬時に判断した決断だった。昌幸は当時、「表裏比興の者(一筋縄ではいかない男)」と評されるほど、したたかな武将であり、周囲大名から恐れられた存在だった。その昌幸を相手に一歩も引かない態度をとった小松殿の胆の太さは見事というほかない。そしてこの行動は、徳川家内において夫・信幸の信頼を絶大なものにした。結果、真田家はその後明治維新まで(現在も)存続することになる。小松殿の行動は、城だけでなく、家の存続をもたらしたのである。
江戸幕府の政権基盤構築に尽力した阿茶局
現代社会において、女性の活躍には目を見張るものがある。商品開発や営業、さらには管理職など、さまざまな職種で力を発揮しており、その能力を活かせなければ企業の発展を妨げることにもなりかねない。また、「男性だから」あるいは「女性だから」といった価値観で部下を判断すれば、その人が本来持っている能力を発揮できる役割を与えることができず、企業活動を停滞させるかもしれない。男女にかかわらず、"適材適所"こそ、組織運営の大きな力になるはずだ。
戦国大名の中で、能力のある人材を登用するという点では織田信長が有名だ。しかし、"男女かかわらず"ということになると徳川家康の方が上かもしれない。その家康が登用したのが阿茶局。長きに亘る徳川の政権基盤構築に大きな役割を果たした女性だ。家康の側室の一人だが、家康からの信頼は厚く、まるで男性の側近のような扱いだったという。女性ならではのきめ細やかさ、一方で男性顔負けの胆力を併せ持ち、戦国という"男性優位の社会"の中にあっても圧倒的な存在感を示した。
阿茶局は、武田家の家臣・飯田直政の娘で、嫁ぎ先で2児を出産するが夫が早世したために生活に困窮。浜松城下で物売りをしているところを家康に見初められて側室になったという苦労人。とても聡明な人で、子育ての経験があったこともあり、のちに2代将軍となる秀忠の養育を任され、武将としての心得を教え込んだ。また、家康に代わって自筆の手紙を各方面に送るなどの対外的な実務も担っており、側室というよりは、むしろ実務者として重用されていた。そして、その役割は事務的な仕事ばかりではなかった。馬術などの心得もあったので、合戦のときには武具を身に着けて出陣し、終始家康に付き添っていたという。
阿茶局が養育した秀忠が将軍職に就くと、やがて豊臣家との軋轢が生じ、1614年の大坂冬の陣が勃発する。幕府方は約20万の大軍で大坂城を包囲するが、城はなかなか落ちない。長期化することを恐れた家康は和議を申し出て、多くの使者を送るがなかなか交渉はまとまらない。業を煮やした家康は、切り札として阿茶局を使者に起用する。豊臣方も淀君の妹・常高院を使者として送り出したこともあり、会談はスムーズに進行。交渉はまとまり、やっとのことで休戦が決定した。男たちが実現できなかったことを、女性同士の会談で"あっという間に"実現したのだ。
そもそも合戦の場に女性が担ぎ出されるということが前代未聞だが、この交渉は「阿茶局ならばうまく交渉するだろう」という家康の読みがあったからこそ実現したものだ。家康の"男女問わず適材適所"の判断は、天下の大勢を大きく動かす決定打だったのだ。
男女問わず"適材適所"こそ、力を発揮する要因となる
家康の死後、幕府は公武合体策をとり、家康の五女・和子(まさこ)を後水尾天皇へ入内させる。このとき同行したのも阿茶局。朝廷にも「阿茶局ならば」という安心感があったことは間違いない。これにより、阿茶局は後水尾天皇から冠位を賜っている。
「将軍候補者の養育」という女性ならではの能力。また、外交文書の筆記という官吏としての能力。さらには合戦の場を恐れない胆力、そして交渉力など、あらゆる面で力を発揮した阿茶局は、徳川政権を盤石にするための大きな推進力になったことは間違いない。ちなみに、1615年の大坂夏の陣では、真田幸村の軍が家康の本陣に迫ったとき、家康は死を覚悟したとも伝わるが、阿茶局はこの時も家康の側にいたという。
家を守るため2人の息子の敵に回った戦国一の女傑・妙印尼
ビジネスにおいては、大きな犠牲を払ってでも、決断しなければならないこともある。それが戦国時代では、命のやり取りが前提となることがある。そんな状況下で「家を守る」という一念を貫き通した女性リーダーがいた。それが、赤井輝子、のちの妙印尼だ。彼女が歴史に登場するのは、夫が亡くなったために出家したあとのこと。当時としては高齢の71歳であったにもかかわらず、軍を指揮して大戦力に対抗。城、そして家を守り抜いた戦国一の女傑だ。
妙印尼の夫・由良成繁は、上野・新田金山城の城主だった。成繁は下克上でのし上がった武将で、北条家との関係を深めながら地位を築き上げた。やがて成繁が死去すると、これをきっかけに北条家が由良家を狙いはじめる。北条氏政が同盟を組む口実で、嫡男・国繁と館林城主になっていた弟・長尾当長を茶会に呼び寄せ、そのまま小田原城に幽閉してしまったのだ。
これを聞いた妙印尼は、「バカ息子ども!」と怒り出し、城主不在となって指揮系統が乱れた家臣たちをまとめ上げ、城の防備を固めた。北条軍が城を取り囲むが籠城戦を指揮して徹底抗戦。さらに、北条に敵対する勢力への協力を求めた。やがて氏政から「二人の命を引き換えに降伏しろ」との書状が届くが、妙印尼はこれを敢然と拒否。「息子の命よりも家の維持のほうが重要」と判断したのだ。親としては苦渋の決断だったに違いない。
氏政は、周辺との抗争も抱えていたこともあり、合戦を回避。結果的に新田金山・館林両城の引渡しと二人の解放を条件に和睦することになり、妙印尼は家臣を連れて桐生城へ退去した。妙印尼にしてみれば、「世の情勢を甘く見すぎのバカ息子たちのおかげで2つの城を明け渡すことになってしまったわい」といった出来事だったと思われるが、見事な統率力と判断力によって、城と家を守ることができたのだ。
それから6年後の1590年、秀吉による小田原攻めが開始されると、北条の指示で由良家は小田原城に入るよう指示された。当初は、国繁・当長兄弟もこれを拒否していたが、北条家が由良家を攻める姿勢を見せたために降伏。兄弟はしぶしぶ小田原に入ることになった。
この息子たちの決定に妙印尼は激怒し、再び立ち上がった。このとき妙印尼は77歳となっていたが、孫を引き連れて豊臣軍に参戦したのだ。過去のいきさつから北条家を信頼していなかったこともあるだろうが、「豊臣という大勢力に北条は呑み込まれるであろう」という大局的な判断があったことは間違いない。同時に、「家を守る」という一念から、息子たちと袂を分かつことを選択したのだ。そして、自ら軍を指揮し、合戦に参加。やがて北条家が敗れたので、本来であれば、小田原城にいた二人は処罰されるところであったが、妙印尼の軍功によって、処罰を免れたという。
大変革の時代だからこそ、大局的な見地に立つことが重要
思いを馳せれば、某家具販売会社の"お家騒動"である。結果的には、不出来な子の独断が裏目に出て"家"は他人の手に渡ってしまったわけだが、子を祀りたてた周囲の裏切りが痛かった。家を築いた親は、果たしてどれだけ歯痒い思いをしたことだろう...。
2020年現在、コロナ禍によって多くの企業は打撃を受けている。現状を回復するためには、場合によって身を切るような決断も必要かもしれない。また、テレワークの導入などによって、働き方や仕事の進め方が大きく変貌するとも言われている。一方ではオフィスの重要性を示唆する意見も少なくない。このビジネス大変革の時代にあっては、その場しのぎの対応ではなく、現状をしっかりと見極め、将来のために大局的な見地に立つことも必要だろう。ウィズコロナに向けて、企業の在り方について問われている現在だからこそ、妙印尼の未来分析力と意志の強さを参考にしたい。
■記事公開日:2020/11/09
▼構成=編集部 ▼文=小山眞史 ▼イラスト=吉田たつちか