明智光秀を語るとき、真っ先に思い浮かぶのが「主君殺しの裏切り者」という言葉です。"本能寺の変"は戦国史上最大のクーデターだけに、大河ドラマの爽やか過ぎる十兵衛(若き日の光秀)に違和感がある方も少なくないことでしょう。ドラマでは生きざまの辻褄合わせがおこなわれるでしょうが、実際の光秀については謎だらけ。その素顔は史実としてはほとんど語られておらず、戦国時代の名武将にしては気の利いた名言も多くは残されていません。そうした中で、彼の人となりを最もよく表しているのがこの句です。
明智光秀(1526~1582)
斎藤道三の家臣・明智光綱の子として誕生。父の逝去により13歳で家督相続。明智城の戦いに敗北し31歳から浪人となる。40歳、越前の大名・朝倉義景に仕える。44歳、織田家臣として本圀寺の戦いに参戦。その後、比叡山延暦寺の焼き討ちに参加。この時の活躍により坂本城主となる。そして57歳、本能寺の変で織田信長を討つも、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。敗走中に落ち武者狩りに襲われて負傷し自刃した。
■記事公開日:2020/03/05
▼構成=編集部
強烈な個性をもつリーダーの下には、優秀な実務家が必ずいて組織内のバランスを保っているもの。また、そうした能力や忠誠心を見抜き、側近として引き立てるのも優れたリーダーの才能です。さまざまなハラスメントが言われる令和の時代からすると、かなりいびつな絆ですが、信長と光秀の間にも確かに信頼関係があったのです。
ところがなぜ「敵は本能寺にあり」という結末に至ってしまったのか。それは信長に対する失望です。光秀は信長の天下統一に、乱世に平和を誘う「麒麟」の姿を重ねて見ていたはずです。それが幻想だと悟ったとき、「親方さまが麒麟になれぬなら、このわたしが」そう決意したのでしょう。後世、「忠誠心に個人的な感情を交えるな」を人生訓とした勝海舟は、光秀の純粋さを嗤ったのかも知れません。